日本に仏教を持ち込んだのは、聖徳太子。
その後も、色々な人が衆生済度成さしめようと様々な宗教を持ち込んできましたけど
うちも、ご先祖がお寺なんかやってましたし、父が宗教研究大好きだったので
そういう話は耳にたこができるぐらいいっぱい聞かされていて
自分自身も、哲学の授業とか、宗教のことを学ぶのは大好きだったし
父を見ていると、自分の悩みや葛藤をどうやって乗り越えるかを
宗教を学ぶことで足掻き研鑽しているような印象を受けていたので
幼いころ、宗教ってのはそれを学ぶことで自分の心を律していく学問である。
という認識でおりました。てゆか今でもそれは変わらんのだけど。
しかし世の中的には、宗教ってのはかなり違う意味の捉えられていて
どちらかというと、神様に依存して楽をしたい的な感覚や
お経を唱えるだけで救われるとかありえん的な感覚の人が多い。
で、そういうのはなんていうか、私はとても表面的だと思っていたんだよね。
儒教にしろ仏教にしろキリスト教にしろ、苦しみから救われるために
どのように物事をとらえ、どんな気持ちで世界中の全てに挑むか
みたいなことを説いた上での「救い」であるのに、
なんで巷で騒がれるのは、表面ばかりであるのか。
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それは単純に、布教の過程で宗教を利用しようとした人がいたからだろうね。
宗教を利用してお金儲けをしようだとか、功名心を満たそうだとか、
人を動かそう、人をどうにかしよう、って人がいたからだろうね。
しかし、そういう歴史も全部ひっくるめての宗教であることは間違えなく。
例え、私が思っていた宗教と、表面的な宗教っていうのは違うように見えても
案外そうでもなく、全部ひっくるめて宗教なんだろう、と、今は思っている。
実際、なぜお経を唱えることで救われるのか、というのは、学んでいくと
きちんとそれなりにナルホド。と思う理由がある。
それが、自分に当てはまるかどうか(自分が救われるかどうか)は別として、
そのナルホド。と思う理由には学ぶべき事柄はあるわけです。
同様に、宗教が色々であるより以前に、神にも色々がいて
人を救う善なる神と、人を利用して混沌を呼ぶ悪神がいるんだろ、と思っていて、
だから悪魔崇拝系だって宗教であることには間違えないのだろうと思っている。
なんでそんな話をしているかというと。
宗教差別が巷で話題になっていて、色々と思うところがあったから。
差別された末端の人なんて、正に利用されてる人だよね。
宗教的教理を抜きに、ただ救われると信じて人を勧誘する。
それが信仰心、というならそれこそイワシの頭も信心、って話で
選ぶ宗教なんてぶっちゃけ何でもよい、って話になるだろう。
だけど色々宗教的なものを学んでいると、
なぜお金を寄付させるのか。
なぜただお経を読むだけで救われるのか。
そういうのって(少なくとも納得する人が出てくるぐらいには)
説得力がある何かがあるのも間違えないんだよね。※詳細は末尾に。
で、突き詰めると結局は、信仰するのはその宗派である必要はない。
イワシの頭も信心、ってのは正にその通りなんだって結論に至るw
で、多分大切なのは、そういうのを知ることであって
そういうのを知る道ってのは、冒頭に書いたとおり
多くの先人が、色々な形で世に残してくれている
それから何をどう学んで糧とするかなんてのは、その人次第だし
どんなに徳高き教えでも、
目の前の悩みを解決できないなら、
貧困や現実的な問題から救われないなら
一見救われたように見えて、実は借金を増やしただけだとしたら
あまり、意味がなかったりする。と、思う次第です。
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以前、友達になったと思った人が、実は某宗教&政治団体に
どっぷり漬かっちゃっている人で、家に招待するぐらい仲良くなった頃に
突然一生懸命勧誘されるようになってしまったことがあるのだが
あなたが正しいと思うものはあなたにとっては正しいのだろうと思う、
だが私にも正しいと思うものがあり、それがあなたと一緒かどうかは別だ。
もし、私があなたの正しいと思うものを正しいと思ったら
自分の意思でアクションを起こすし、もし違うと思ったら私は私が正しいと思うものを選ぶ。
それで良いかな?
・・・と、説得したら、それ以上は何も言ってこなくなった。
私には、宗教感に関して、自分が思うところがあり
こういう形で、勧誘に対峙することが多いのだが
#ちなみにネズミ(マルチ商法ね)なんかに対しても同じように対処しているが
結局は、知らない・わからない・学ぼうとしないから
偏見だ差別だとかそういう話になるんだろうなー
と、思います。
で、
そういう意見のない、偏見差別や事なかれ主義が、一番怖いんだよね。
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補足。
あくまでも、私が聞いて納得した!という宗教観の話です。
私の信仰の話でしかないので、その辺はご了承ください。
正しいかどうかなんてのは、多分死ねば分かるんじゃないかと思っている
ちなみに、日本古来からの神道がベース
戦前にあった日本神道じゃなくて、神社が出来た由来とかそういうところね
■何故お経を唱えると救われるか。
それは仕事や勉強、読書に没頭したり、スポーツに没頭したりすることと一緒で
何か一つのことに集中して「無心」になることの効力だそうだ
#そこに信仰心があれば、神懸ることもあるかもしれないけど
#そのへんについては、きちんと祀られている神様のことを勉強してください。
宗教に関する学がなく、ただ無心にお経を唱えるってのは
無心になる時間をちょっとでも作ることで気持ちを切り替えることが重要だそうだ
ちなみに、ちょっと違うけど、コーヒーを飲んで一息つくことで
気持ちを切り替えることでも十分「救われる」んだそーだ。
すっげー煮詰まっているときは、まずコーヒーでも飲んで、
それでも振り切れなかったら何かに没頭しましょう、ってことだな。
救うって話だけだったらここまでなんだけど、
スポーツよりは勉強とか仕事で頭使おうね、
何故なら学問は死んでも持っていけるから。ってのが神道の考え方。
■何故お金を払うことで救われるか。
これは、ある程度宗教や神様のことを勉強しないといけない部分かもしれないけど
私が神様のことを学んで、一番「あーなるほど」と納得出来たものを書くと
人のために、と財を投げ打つことで、業を払うってことらしい
#業を積む・業を払う、ってことを説明するのは私には出来ないw
#言うなれば「良いこと貯金・悪いこと貯金」みたいなもんで、
#運とか言われるのはこの貯金が関係するよって概念だな
#因果応報とかいうのも、この辺がベースだろう
#なんか生まれた時からそういうのは感覚で持っていたので
#私に取っては理屈じゃないのだ 各自学んでください
勿論、相場に手を出して散財とかそういうことではなく
他人を助けるためにお金を投げ打つこと、が重要ね
なので、自分(だけ)が救われたいからとお金を払っても
下手をすると、逆に業を積んでしまうことになるらしいので注意ね
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