私らは「ない」ものはつくれない

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先月まで六本木ヒルズで開催されていた、
医学と芸術展(←公式。「過去の展示」はこちら)の感想を書いてみる。


行く前は、「ろぐ。」にレポ挙げる気満々だったのだが、
あまりにも感想を書くことに空虚感を抱いてしまい、書いていなかったのだが。


ちょっと、思うことがあったので、こっちに書いてみる。


結論から言うと、展示会としてはものごっつ素晴らしかった。
貴重な作品がものごっつ多数展示されていた。

#主観としては、あまりに「医学の歴史」過ぎて、ちょっと物足りなかったけど。

また、人の入りが多く、客層がやたら幅広かったことにも驚いた。



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でまあ、なんで突如としてそんな話を書いているかと言うと、


最後の方にね。

遺伝子操作されて暗闇で光るウサギ"GFP BUNNY"という「作品」があったのですよ。


うさぎさんはもう死んでしまっており、展示方法はコンセプトアートみたいな感じだったが
ウサギの存在を報じるビデオ映像を延々ループで流していた。

芸術のために遺伝子操作までやるのは行き過ぎでは?ってニュースとか

市民の方が「人が遺伝子操作をする、いわば神の領域にまで
手を出しはじめたことについて、我々はもっと真剣に話しあわなければならず
このウサギの存在が、その機会になったという意味で歓迎します」とか、

或いは風刺的なアニメや映像を、延々流しているわけです。ループでね。


科学ってのは、そういう「話し合い」をすっ飛ばして
一部だけのの人の手により、どんどん進んでいっている。

それらに対して、向きあって、もっと話しあおう。というメッセージが
強く打ち出されていた。

その中で特に印象的だったのは、

作者の「(遺伝子組み換えで生まれても)同じ生き物であるということ」という台詞と

「緑色に光るウサギよ、ノアの箱舟に乗れ」というメッセージ。


旦那は、ツガイじゃないから乗れないんじゃないかなーと言っていたが(そーいう意味じゃねぇよw


しかしこれ、日本で論じられたりしたら「正しいか正しくないか」
ということに終始してしまうのだろうか、と思っちゃったのよね。

てゆか、絶対的に正しいとか正しくないとか言い出す人が
出てくるんだろうかなぁ、と。思ったら、

なんかげんなりしてしまった。


で、このウサギに限らず、際どい作品が大変多くて、
それが、私が「ろぐ。」に感想を書くことを諦めてしまった最大の理由。


あとはまあ・・・作品ひとつひとつに言いたいことがありすぎて
こんな大事なものは、心の中にしまっておこう。と思ったのもある。

実は意外に、大事なものはあまり外に晒したくない人なので。


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ちなみに作品展としてはほんと秀逸だったので、
作品展としての感想を見たい人は「医学と芸術展 感想」でぐぐってください。


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「意見が交換出来る場があり、そこで自由に語り合うこと。」


そういうのを私はすごく「人間的な活動」である、と感じていて、

そういう機会がすごく損なわれていることに対して
「欠けた感じ」がしてならない。すっごいもやもやする。


そのもやもやは、虚無感と言っても良いかもしれない。


何故他の人たちはその虚無感を感じないのか?
仮に感じていたとして、何故表明しないのか?

と、思っちゃうぐらいに。


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さて、珍しく先に言いたいことを書いてみたけどw


日本でこういう論争が起きると、すぐに正しいか正しくないか、になる。

って部分について、もう少し掘り下げて言いたいことを書いてみる。

もしかしたらこのブログでも、過去のどこかでも何度も書いていることかもしれないが。


私は、人が正しいとか正しくないとか決めるのって、ものすごくゴーマンだと思っていて、
そもそも正しいとか正しくないとか決める権利なんてもんは人間にはない。と思っている。


しかし「ルール」や「倫理」ってのは、人が地上で活きる上で、多分絶対必要で、

ルールを制定しなければならんのは神なんかじゃなくて「人間」であろうと思う。

そのためには、論議・論争はなくてはいけないし、
論じるのもルールを作るのも人間の「義務」だろう、ぐらいに思っている。


でもね。ルールはあくまでもルールでしかなくて。


正しいとか正しくないとか「決める」のは、神様なんじゃないかと思う。

私の言う神は(某猫さんところの表現ですっきりとしたが)「自然」であるな。


だから、自然淘汰とかいうのも神の手によるもんじゃないかと。

例えば人間が間違えたことやった結果、神の手により種が消える、というのは
人の過ちの結果だけど、過ちだと決めたのは「自然」である神、だと思うのよね。


人が間違え続ければ、自然は絶対、人を淘汰すると思う。
人が、知恵と共に与えられた試練というのは

間違えたときに、反省することとやり直すこと

だと、思うんだよね。

で、そこに立ち返るのを忘れてしまったら、
いずれは自分らの手で、朽ちて行くのだと思う。


その努力を放棄して、

ただ何もせずに、滅びの方向へと転がっていくのを
見ているだけ、というのは、人としての義務を放棄した

もっともやっちゃいけない罪 だと思うんだよな。


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同様に、人が勝手に決めた「正しさ」なんかで、
人を裁いたりするのも間違えていると思うのだ。

そういうのもね、もし間違えていたら
自然から、裁かれるものなんじゃないかなと。


考え方も。


だから、間違えた考え方をしていたら、

自然の一部である「肉体」に、自分自身が裁かれるんじゃないかと。

病ってのは、そーいうもんじゃないかと、思っているんだよね。

で、

医学ってのは

反省して、やり直すためにつけた知恵。みたいなもんで、

そういうのを手に入れることこそ、人としての正しい成長なんじゃないか。

と、思うのです。


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人は、自分らで正しいの正しくないの決めつけてしまうよりは

私らの存在は自然の一部でしかない。ってことに
もっと謙虚であれば良いのに。と思う。


自然にはない、人の手でしか作れないものがある、とかいう人は出てくるだろうが、

それだって、自然に存在するものの組み換えでしかなく
細かく細かく砕いていったら、全ては自然に立ち返るのだよ。


結局は、「存在する」ものの組み合わせのものしか、人の手からは生まれない。

「無いもの」は、人の手によっては決して作れない。


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あるのは、「発見」だけだと、思うのよね。


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また、だからといって「自然のままに」とか言って
医学も科学も無かった時代まで生活レベル・知識レベルを落とすってのも

私は、神に対する冒涜のように感じている。


そういうのは、明らかに違うだろう、と。

リスペクトはしていいし、しなければいけない。

けど、逃げちゃだめだよな、と思うのだ。


神は、科学や医療が無かった時代への回帰なんて
後退だとしか思わんのではないかと。

いや、むしろ、そこに弊害があったとしても
人が作ってきた歴史から目を背けるのは

なんか、違うな、と。


「核」を持った私らだって、戦争をする私らだって、

自然の一部である。

というところから逃げてもなんもならないのではないかと。


性善説とか性悪説とかいう表現もね、そういう意味で嫌いなんです。

自然は良いものも悪いものも全部ひっくるめての自然ではないかと。

故に、自然の一部である人間にだって、両方あって本物であろうと。

どっちかだけに焦点を絞るのは、ご都合主義でしかないのではないかと。

そう、思うんですよね。


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#しかし本当のところ、どうしてすぐに正しい・正しくないと決めつけたがるのだろう?
#考えなくて済むようになるからかな?

#でもそれって、自ら奴隷になります、って言っているようなもんじゃない?


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さて。話を医学と芸術展の感想に戻す。


本音言うと、もちょっと医学萌えwな展示もあるのかなと思っていたのだが、
実際は、医学の歴史とそれを記録した芸術作品、て感じでした。


医学というのは、自然の一部である人に対する飽くなき追求。「科学」ですね。

今回の医学と芸術展では、そのことをまざまざと見せつけられた気分になった。


特に女性の解剖模型は殆どが妊娠中のものである、ってのが強烈だったりとかね。


人は、どうやって産まれるのか。

そういった好奇心・探究心だったりしたんだろうかな。

いや、まあ、本当のところを言うと「女性」である私としては、
女性が妊娠の道具程度にしか見られていないようでもあり、
妊娠する女体が好奇の目に晒されているようでもあり、

実際は、大変不愉快に感じもしたのだが。


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例えば

死んだ人を解剖して、正確な死因を突き止めた際の記録や
足を失った人のための義足の展示の先に、

骸骨をただキャンバスにこすりつけたものであるとか
生前と死後の写真をUPで並べていたりだとか

すげーカオスな世界だった。

そして、あまりにも展示数が多く、

ひとつひとつが、重い意味を持っていた。


最初は、確かに医学と芸術の融合、という感じだったのだが
最後の方は、医学と芸術の対比、という色が強くなっていった気がする

勿論、後半にも「観察→表現」の展示もたくさんあったはあったけど・・・


「探求」から「問いかけ」に変わっていった、姿勢の表れ、なのかな。


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関連リンク(既出含む)

医学と芸術展公式サイト

森美術館公式ブログ(医学と芸術展に寄せられた質問にお答えします)

ウエルカム財団(公式・英語。日本語はwikiで)


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関係ないが、

私は個人的に、芸術ってのは科学に即している作品ほど
心に響いてくるものだ、と、思っている。

真理に近づけば近づくほど、ワクワク感が高まるというか。

勿論、それをあえて逆説的に捉えた作品も大変面白いが、
ルールもなく何でもあり、というものにはあまり「ワクワク」はない。

ベースに「科学」という軸があればこその、笑いというものであろう。


そういう意味で、芸術家っていうのは
科学者とは別の確度からの真理の探求者(或いは表現者)である、

と、思っていたり。とかとか。


無論、そんなこと頭で考えてやっている人も少ないだろうが、

先日、知り合いの妹である絵本作家のサイトを
何年ぶりだか・・・多分5~6年ぶりに訪れて

そのコンセプト を 読んで なんかそんな気がしたのよね


何を表現しようとして、この作品が生まれたのか。


出会った当時は、そんな話は思わせぶりでも出てこなかったのだが




でもそれは、この数年のうちに彼女の世界観が固まったから
綴られることになった言葉なんだろうな、と思った。

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このブログ記事について

このページは、qufeiが2010年3月 5日 10:11に書いたブログ記事です。

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