私が描いていたモノ。
それは、何かに対する羨望であったり
何かに対する強い願いだったり
内に秘めた恋心だったり。
但し、それらは「私の」ではなく、「他人の」。
私は唯、そういったものを見つめ続けて表現し続けていた。
表現したいものは、他人の想いだった。
意識してやっていたわけではないが、
私はそういう「想い」を抱く人に、
憧れて(今でもそういう傾向はある)、
ただ、横でそれを見つめて、形にする。
それは無意識であったし、私の描くものが自分を表現しているとは
受け取った人は誰も気づかなかっただろう。
ただ、みんなとても喜んでくれた。
大切な宝物を貰ったように大事にしてくれた。
自分を描いたものだとは思いもしなかっただろうし、
私も、そのことには後から気がついたのだが。
-----
喜んでもらうのがうれしくて描いていたのだが、
私が描いていたのは、相手の自画像だった。
相手が秘める思いを形にしたものだったから、
大切にしたい思いを表現したものだったから、
喜んでくれた。ということだ。
そして、その絵を渡すことで、私は
その人から解放された と思い
その人の元を去ることが多かった。
私がその人に伝えたかったことが、
正しく伝わったことに満足したのかもしれない。
私が描きたいものは、表現したいものは、
そういうものだった。
-----
それが、私が絵を描く側面のうちの1つ。
-----
もうひとつの側面は、技術。
自分が表現したいものを表現できないもどかしさ。
ひたすらひたすら、技術力を高めることで「満足」を手に入れようとした。
だがある時、おまえは(絵ではなく)文章を書け、と言う人がでてきた。
私が、相手に伝えたいことをただひたすらに
絵に託そうとすることに対するアドバイスだった。
今になって思えば、それは適したアドバイスかもしれないし
大きなお世話だったのかもしれない。
だが、同時に読むことを勧められた本(例えばユングとか)に
書かれていたことを色々考えると、わからなくもないアドバイスだった。
「投影」
に、私は苦しんでいたからだ。
私の中に、私ではないモノを投影する存在から
逃げる手段が、絵を描くことだったからだ。
「私は、違う」
それを言葉にすることなど考えもせず、
ただひたすらに相手が思い描くものを絵に描き起こす私を、
そいつは
犬死でしかない
と 言い放った。
-----
「独自の世界観を確立しろ」
ある先生(ということにしておこう)に貰ったメッセージだ。
「心理描写とペンタッチはベテランの域。でも絵が下手」
そうとも書かれていた。
絵が下手。というのはどういうことか。
私の(絵を描くと言う面においては尊敬に値する)友人が
描く対象の一つ一つをとても丁寧に、
愛でるように、嬉しげに観察していたのを見て
私には無理だな。と思った。
-----
ヒトとして成長したら上手くなれる、と思った。
と言うより、人として未熟である故に私は絵が下手である。
と表現する方が、当時の(或いは今の)自分に対する評価としては、正しい。
絵が変わっていないことは、
私自身が変わっていないことに他ならない。
絵が上手くなる、って、どういうことだろう?
そもそも私はなんで絵を描きたかったのだろう?
何を表現したかったのだろう?
・・・その答えは、上述の通り。
それを描くことにより、私はどうしたかったのだろう?
多分、逃げたかった。
のだと。
-----
何かを描いたり表現したりする元になるものは、
感覚や感情だと思っていたのだが、
もっと根本にある素材、というのは「脳が取り込んだ情報」だ。
逃げたいという思いが絵を描いたわけじゃない。
なのに、私は逃げの手段に絵を選んだことを
結構長い間、後悔していた。
-----
逃げの手段として絵を描いていたことは、自覚があった。
と言っても、その自覚は私が思うような自覚ではなく
親の跡を継がずに、且つ学費を出してもらう手段として
絵を選んだ、という即物的な理由に対する自覚でしかなかったが。
逃げる必要がなくなったから、絵を描く気持ちが失せた、のだと思っていた。
或いは、しばらくの間は本当にそうだったのかもしれない。
また、私が絵を描くことに対して不満を抱いていた存在からの
総攻撃に辟易して投げ捨てたという側面も、ある。
が、心に余裕が出来れば出来るほど、私が捨てて置いてきた
「絵が下手」
に対する挑戦をしなければならないのではないか、
という思いが湧いてくるのだ。
それは、人としての成長をしなければ、という思いと同義でもある。
-----
絵を描きたいか?と言われると。
反射的に、誰かの真似をしてみたいと思うことはある。
こういう絵が描きたい!というものだ。
しかし、私に突きつけられた命題は、
「人真似をやめて自分の世界を作れ」
であり、それが恐らくは私自身の抱える問題を
解決するものでもあり、また自分自身が
成長する一歩でもあるのだろうと思っている。
-----
私の脳は、世界をどう捉えており、
どう表現したいと思っているのだろう。
例えばデッサンの正確さは、
脳がどれだけ対象を正確に捉えているか、
という観察力が大きいのではないかと考える。
観察することに情熱を傾けることが出来ない以上は
絵なんて描けるはずがない。と、思っていた。
そういう面は、確かにある。
だが、
「あなたが表現しているものは、そういうものではない
技術があなたよりもある人は、いくらでもいる
でもあなたの絵の価値はそれではない」
そう言う人もいた。
そういうことを言われたのと同じ時期に言われたのが
「絵が下手」
その時に評価に使われた作品に対して、
男性と女性から、真向から反対の感想を貰ったこととかも
多分、関係しているのだろうと思う。
「絵が下手」
それは、デッサン力の有無のことではないような気がしている。
今はもう、召されてしまったので、その人から
教えを乞うことは出来ないが。
私は多分、捨ててはいけないものを捨ててきたのだろう。
生きるためには仕方がなかったとは思うが。