教育の最近のブログ記事

「かわいそう」な国民

コメント:

ここ数日、先日ちょっと触れた(金言見つけたという記事)
ガメさんのブログでコメントのやりとりをしている。


そこで、中国の話がちょっと出て、

私は中国の実態など何も知りはしないが、
国が差別を強制している点においては
たいへん可哀相だと感じている

(あれは恐怖政治だよな、いや、昔の日本もそういった時代はあったわけだが)

と書いたところ、ガメさんより

中国人も、日本人ほど可哀想な国民はいないと言っていた。とコメントを頂いた。


その後、色々な記事を読むうちに気がついたんだが

日本って、別に誰に強制されているわけでもないのに
「世間」ってもので、互いに差別を強制しているよな。

自由に生きて良いのに、差別なんかしなくて良いだけの十分な自由があるのに、

差別してるんだよ。それって、すごくね?(悪い意味で


日本には社会がない。世間しかなくて、社会がない。

このことについては、今はなんとなくしかわかっていないが
あとで日本世間学会をよく見て再考したいと思っているが、

とにかく、社会がなくて、世間しかない。というのは
言われてみればそうなのかもしれない、と思う。

これは、大変不幸なことだ。

社会が無ければ、蛮民(である同胞)に、
怯えて生きなければならないのもうなずける。

中国の人が、政府の人間に怯えるように、
日本人は、世間に怯えて生きているのだ。


#だから目に見える範囲、把握出来る範囲、
#理解しあえる同じ意見の人同士でしか
#コミュニティが作れない、のだろうか。


日本人は、世間の奴隷になっている人があまりにも多く、

互いに監視しあい、奴隷ではないということを自覚した人を
妬み、恨み、引きずり落とし、叩く。

すごくすごく、可哀想な国民だ。民度が低いと言わざるを得ない。


十分な栄養が取れ、十分な情報へのリーチが許され
知識レベルはものすっごく高くて、

豊かであるはずなのに、全然豊かじゃない。


尤も、民度ってのは社会の成熟度に比例するもんだから
社会がない、ってのと同じ意味になるわけだが。


うちの旦那は、よく「日本人に民主主義は合わない」と言う。

私は意味がよくわかっていなかったのだが
ガメさんのブログを読んでいて、よくわかった。


曰く(全くの引用ではないが、ニュアンスとしては)

「民主主義とは、言葉によって『決定する』ことであり、
決まらない議論をすることではない(ギリシャはこれにより破滅した)」

ということだ。


民主主義がしっかり根付く国では、政府が何も決めずに
ぐだぐだしていれば、内容に関わらず石を投げると言う。

日本は、その外側で更にぐだぐだ言うだけで、何もしない。

ぐだぐだ言って決めないことは、何もしていないことと同じだということだ。


私も全く同感だ。

石を投げろとまでは言わないが、
石を投げることに近しいことが出来れば、大変素晴らしいと思う。

市長とかならリコールなんてのがそうなるんだろうけどな、

実際は、そういう制度がないので、
ひたすらに、ただ選挙に参加をするだけなわけだが


しかし一方で、選挙なんて「弁当に挟まってくる額で決まる」
(ガメさんの2年ぐらい前のブログからの引用ね)
なんていう馬鹿な風習が、近年にも確かにあるわけで。

#私は遭遇した事ないが、今だって、どこかにはあるのかもしれない。

政治家に献金をすることで、競合他社を叩いてくれたりしているみたいなわけで。

#これはつい最近にあったもんな。

そういうのをさ、叩くヤツラを等の政治家様及びその取り巻きは、
高みから見下して笑ってるわけだろ?

どんなにぎゃーぎゃー言ったって、直接石を投げる文化も制度もなくて
なーんにも、出来てないわけじゃないですか。

勿論、そういうのをなるべく黙らせようとする、カシコイヒトも出てきて
その流れがこの先、どっちに行くのかはよく解らんが、

今のところは、懐柔されてるだけのようにしか見えない。
良く言えば様子見、なんだろうが。

何年後かには、やっぱり裏切られたとか言い出す可能性もあるし、
もしかしたら、日本的な新しい何かが出来るかもしれない。

それは、まだ未知数だけど、少なくとも世界的に言う
民主主義ではないものである気がする。


しかし、それまでの間に、この可哀想で卑しい国民が、
目の前に美味しいそうなお弁当を出されたときに
果たして激怒することが出来るようになるのか。


そういうのを利用できるのが賢いんだよ、と
全員が全員、言わなくなる日は、果たして本当に来るのか。


なんとか手当を目当てに投票をするような人たちが、
働かずに生活保護を受ける方が勝ちとか言う人たちが、

果たして、そんなプライドを持って、自分の人格を持って
社会を築きあげることが出来る日が来るのか。


・・・これは、多分「民主主義に向いている自分」の意見でしかない。


主人は、大変日本人的な日本人だ。

この人が言う「日本には民主主義が合わない」という方を
ベースにして考えるなら、どうなるのだろう。

違う可能性がきちんと生まれて、
日本の政治は、きちんと国民のものになりえるのだろうか?


後で、ちょっとだけ、考えてみようと思う。
頭が全く回らない可能性があるけどw




「奴隷で居たいなんて言う人達の自立なんて、
 どうやって助ければ良いのでしょう。」


しかしこう考えると、どっかの国に逃亡した日本人が見た
貧困の国に対する感想なんかも、眉唾と考えた方が良さそうだ。

あの人はどっぷり、世間ってもんに浸かっていたからな。

日本人フィルタ通して見た世界なんて、
全く当てにならない可能性が高いぞ?




この閉塞感には、なんかものすっごいインパクトあることを
どかん。ってぶつけるしかない。とは思う。

よーするに、そのインパクトが、

辛くて苦しくて恨みを産むようなものでなければ良いんだよ。うん。

性差別の話題まとめ

コメント:

性差別・性犯罪について書くときURLを晒していますが
(他にも色々書いているため)一部、まとめてみました。
※最上部に表示させるため、未来の日付にしています。していました。

・・・この話題だけ、ブログを別にしようかなぁ?
とも思いましたが、まあ、取り急ぎ。全部じゃないけど。


■性差別と性犯罪の(私にとっての)リアル

別次元でのつぶやき

→これだけ2009年6月の記事。年末の差別騒動とは全然別に書いたもので、
 純粋に、性犯罪と性差別の体験や考察を書いている記事。言うなれば原点。

性犯罪に対する認識について、狂ってるなぁと思ったことを
時系列順に、自分がどうして今の考えに至ったのかも添えて書いたもの。

「女子力」をシカトし続けるとどうなるか

→男性や長いものに媚びることがデフォの女集団について。

問題は「中傷・偏見」 プラス「差別」 ってことなのかな

→なんでこの人達、差別だ差別だと騒いでるんだろう、という考察。

「男が弱いと苦労をする」理由と、女性差別の嫌な構造

→モテないことを顔やお金のせいにしている、全ての男性に読んで欲しい記事。


■差別なのか性差なのかを考えた話

肌の露出とセックスアピール

→性的コンテンツを社会から駆除すれば性犯罪はなくなる、という意見に対するカウンター

いみがわからん

→これだから自分はフェミニストですと決して言えないんだよな、という話の一端


■差別する人に差別を止めろと言っても無駄だろ、と思う話

自衛をしたい人・させたい人

→被害者が加害者に対してしている差別

書くようなことでもないと思うのだが・・・

→啓蒙と差別をどうして同一線上に持ってくるのかわからん、って話

パワーゲームは数の暴力の延長線上にある

→差別者を力で黙らせるのだって数の暴力(或いは差別的)だって話

金言みつけた

→自分を奴隷化している人に差別止めろって言うのは歴史的に考えて難しいって話


■差別に逃げずに問題ときちんと向き合え、という話

差別騒ぎの傾向と対策

→差別は利権が絡むから、その影響下にある人に相談すると
 利権に巻き込まれるからやめとけ、って話

それは問題解決から遠くはなれて行くことに他ならない

→差別をしない聖人になろうなんてところで思考停止すると
 社会的な問題がどんどん大きくなっていきますよ、って話


■私から見た、世の論争の解釈

ここは、ほぼ読む意味ないです
私はこういう風に解釈した、ってだけの話

被害者を悪者にしたい心理(+α)

→被害者を悪者にした方が都合がよい人たちの話

論点のすり替えが激しい問題なんだなー

→差別だと騒ぐ方も、差別者を貶めるために屁理屈をこねている。


■思想

教育とか宗教観とかを孕んだ話。性差別と関係ない記事も含む。

メガン法(ミーガン法)に骨髄反射する人

→人は平等じゃない。だけど人権は平等に与えられる。って話

テーマってのは全員違うんだから

→平たく言うと、因果応報の話。

しゅーきょーのはなし

→因果応報とか書いたので、この記事も引っ張り出しておく。

歴史を見るに、教育を語るには宗教は外せないと思ってるのだが、
今の日本の巷で言う宗教ってなんか違うんだよねー、ってことで、
自分で勉強したり医者とか宗教研究家とか色々な人の話を聞いて歩いて
たどり着いた「私が一番納得した宗教観」、の一端。

愛がなくなったのか、それとも

コメント:

前記事の最後の方に書いた、コンビニでたむろするDNQについて。


昔だったら、子どもが社会の規範から逸脱したようなことをやってれば
当たり前に近所のおっさんとかおばちゃんとかに怒られた。

うちらの年代なんて、他の学年と比べてもやんちゃだったから
そういうのは結構顕著で、当たり前の光景で

世間体ばかり気にする実の親なんかよりも、余程
周囲の人達に「育てて貰った」と感じている。

#で、実際それが「自分のものにはならない」って思い出したときに
#本当に悲しくて苦しくてどうしようもなくなったりもしたもんだが。


塾の恩師も、私らの年代の時は、学習塾と言うよりまるで動物園みたいで
頭かじるぞゴルァ で、本当にかじって子どもを泣かせたりとか平気で出来て

それでもその先生にあずけると子どもの成績が上がるから、って
親御さんはこぞってその塾に子どもを押し込めた

子どもは本気で嫌がっていたけどw

それでも学校も卒業して何年かして、あの先生でよかったよね。って
やんちゃだった子たちが言っていたりする みたいなね。


でも私がハタチも過ぎた頃、その恩師に呼ばれて
塾の講師をやってた時あたりは先生もすごく丸くなっちゃって。

有り余る体力と気力を登山ランニング(勿論塾の先生全員巻き込まれ)や
スポーツカーとかにつぎ込んで、すっかり
スレンダー(というか痩せマッチョ?)な男前になっていた。

で、お前らの頃は面白かった、今の子たちは大人の顔色を見るし
怒ると何も出来なくなっちゃうから怒るにも怒れない。

みたいなことを漏らしていた。

ナイーブな子どもの扱いにほとほと困り果てていた、って感じで。


実際、子どもたちはとても賢くお利口さんで、そして無口だった
不満を顔に出すことはしたとしても、決して声には出さない

てゆかまああれは、裏では色々言ってるんだろうなぁとは思う
(私らの頃にもあったが)授業中に女の子同士で手紙を巡回させてたりとかね


マンツーマンなら嫌でも会話をするからどうにかなるのだけど
十数人いっぺんともなると、個々人のレベルも違うしそもそも勉強には興味ないし

さて、どうしたものか。と、思ったものだった


最終的には恩師の「勉強ではなく生き方を教えてやって欲しい」という言葉をそのままに

勉強って楽しいよ。ってことを伝えることに終始し
結果としては大変良い雰囲気を作ることが出来たわけだが



話を冒頭のDNQに戻そう。

昔だったら、たむろするような若者ってのは
大抵何か(主に大人かね)に不満を抱いていて
その実、単にかまって欲しいだけだったりとか

言っちゃえば、大変わかり易かったので
体当たりでぶつかっていけば(初めは面食らったとしても)
最終的には仲良くなれたりした気がするんだが

今のはそうじゃない。

結構、家の中では意外と王様だったり
悪い仲間に合わせなければハブられるからだったり

無法地帯で育ってしまっているような子たちが本当に沢山いる

学校に化粧をして行くのは当たり前のことだし
お水系のバイトをすることに何の疑問も抱かない
(とは言え親にはナイショらしいが)ような子たちが

ふつーにありふれていて、

そして何故かそういう子にライブハウスでナンパされて(女の子だよ
飯おごられたりしてしまうよーな私なんだが(いやきちんと割り勘にしましたけど



彼女らが何を求めているのかなんて全然わからなかった

モノはある。バイトすれば(ひどいとエンコーとかになるわけだが)お金もある。

大人になって子ども産んだら自由に出来ないから
子どものうちに沢山稼いで遊ぶんだ、みたいな雰囲気


そんな現実的な女の子(まあ、女の子のほうが早く成長するからな)を尻目?に
男の子たちは社会に対して何を考えて生きてるんだろうな

恋愛よりも運動や勉強や自分らの遊びのが大事。みたいな
結構しっかりした男の子たちしか見てないからよくわからんのだが


少なからず。

たむろしているよーなガキどもに説教でもしようもんなら
怪我させられることぐらいは覚悟する必要はあるよね

昔とは違う。

ある程度モノはあって過剰なぐらいの干渉に辟易して
優しさが憎悪に替わってしまうような瞬間も何度もあったりして

愛情とか全然必要としていなくて
#むしろそういった形での愛の押し付けを気嫌いして

それでも、満たされない何かを、勉強でも運動でも遊びにでも
つぎ込めるものが見つかれば、まだ救われるのかもしれないが

そういうものも見つけられず、ただなんとなく「居る」


なんとなく、繋がりを求めている。


なんか、そんな感じだったな。


私らが若い頃は、大人からはどう見えていたのだろうか。

やっぱりわからん。って思われていたのかねぇ



まあ。わからないのはわからないで仕方がないとしても

親の責任とかいう一言で終わらせるとか、そんな逃げばかりで
目の前にいる「人」として向きあわない、ってのはどうかと思うよ

とりあえず。

真面目に真剣に考えるよりも、なるべくストレスをためずに
みんなが幸せになる道を模索するのが合理的だと思う。

しかし世の中の殆どは、ムダと葛藤で成り立っている。



すみません、皮肉です。



自分も幸せで他人も幸せで、はじめて

「みんなが幸せ」。

と言えるんじゃないだろうか。



他人の幸せを思うとき、自分が犠牲になるってのは
欺瞞に他ならず、そんなことで手に入れた幸せには
絶対に後で怨念めいた何かがくっついてくる。

その怨念を、あなたがもし力でねじ伏せたとしても
絶対に、消えてなくならない。

昇華される時まで、暗い夜道に張られたロープのように
誰かがつまずく罠となって、こびりついてしまうのだ。


自衛をしたい人・させたい人

コメント:

歪んでるなーと思うんですけどね。

痴漢でも何でも、被害に遭った人の中でがちがちに自衛しちゃう人ってのがいるわけです。

多分、私もそのうちの一人だとは思うが、私はこういうのは歪んでいると思うし、
見てわかるぐらいに自衛をがっちがちにしている人こそ
襲われやすいんじゃないだろうかと思ってはらはらして見ているぐらいなんだよね。

#こういう意味だけでも「間違えた自衛」ってのは明らかに存在すると思っている。
#今回の話とはまた別の話になっちゃうから書かないけど。


しかし、こういう人達に「自衛は意味ない」と言うとどうなるか。

噛み付いてくるんですね。

噛み付いてくる理由って、結局は自衛なんて意味がないってのを
認めるのが怖いからなんだと思うんだけどまあ、それはともかくとして

自衛を否定する表現では、こういう人達は心を開いてはくれない。


しかしそもそも、語られている自衛が正しいものであるなら、
こんな騒ぎにはなっていないはずなんだが

それ以上に意識を払わなければいけないことがある。


どうして自衛をしたい人は被害者の生の声、

「自衛をしていてもどうにもならないような被害に遭いました」
という告白を、無視(というかスルー)するのか。考察することが出来ないのか。

本当に自衛を考えているなら、被害者の声こそ自衛なり、再発防止なりに
役立つものだと捉えることが出来ないのは何故か。

差別だとか人権侵害だとかラベルを付けて騒ぐのは簡単だが
溝を深めたり決裂したりするだけなら、仲良しごっこと同じだろ。

それが求める世界だというなら、前記事の通り
パワーゲームですかそうですか、で終わる話なんだけどさ。


「間違えた自衛論」には問題が幾つかあるわけだが、

その最もたるは『被害者が声を上げにくい社会』という
加害者に都合が良い硬直化を起こしているところにあると思っている。

要するに、「自衛自衛言う奴らが再発防止の邪魔をしていることに
気付いていないのが問題」
なんだと思うんだよね。

気づいていない人には何言ったってわからん。それはもうどうしようもない。


どっかのブコメに「自衛しても他の人が襲われるだけ」みたいなことが
書いてあったけど、それだけじゃなくて

被害者の自衛を責める風潮のお陰で、事件が表に出て来にくくなる、
加害者が一般人に混じって平然と暮らしてる状況を作ってる。

それどころか、加害者を正当化・擁護するようなことばっかり言う。

本人にその自覚が全くないことが問題なんだよ。


てゆかこーいう人ほど犯罪者にしてみりゃカモだと思うんだけど
カモだって自覚だけはあるから余計自衛厨になっていくんじゃなかろうかと・・・



前に戻る 1  2  3  4  5

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち教育カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは性の話です。

次のカテゴリは日常です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。